Q ブログのプロフィールによると1950年満州うまれとありますが、
A 父が満鉄の技師だったので、終戦後も鉄道の技術を中国の人に移転するために、留用され帰国が遅れたのです。引き揚げは昭和28年(1953年8月)3歳のときです。鹿児島の父の実家に半年ほど世話になって、父は東京で職探し、そして、電源開発に入社して、おもに水力発電のしごとで、山奥の中継局のしごとや、ダム建設のしごとで、山奥の現場を渡り歩く仕事でした。 愛知県のやまおくの作手村とか静岡県の佐久間ダムとか、川越の変電所とか、そのたびに転校してついてまわりましたが、こどもの教育のためということで6年生からは東京の中野のアパートに母子ですんで、父だけ単身赴任というスタイルになりました。
Q どんなこどもでしたか?
A 工作だいすきなこどもでした。母は裁縫用の庄三郎のハサミを紙を切るのに使ってもしかりませんでしたし、父は道具箱のペンチやナイフやドリルやのこぎりを好きなように使わせてくれました。よくケガをしました。はさみは、もつ手にまめができるほどよくつかいました。
Q どんなものをつくりましたか?
A 竹細工でかたなや弓や鉄砲などをつくって、ちゃんばらごっこをよくしてあそびました。紙をきって紙人形もよく作ってあそびました。紙人形には、特別なおもいいれがありました。4歳の時に、こうべのおばあちゃんが連れて行ってくれたレビューの幕間にマジックショーがあったのですが、そのとき見た、紙人形がにんげんになるマジックに、すっかりだまされて、紙人形にいのちがあると思い込んでいました。
うごくおもちゃが大好きでした。空き缶と針金で、腕がうごくロボットや、ゴム動力の飛行機なども、つくりました。たまに父が町へでたときのおみやげにブリキのおもちゃやお人形をかってきてくれましたが、ぶりきのおもちゃは、ひととおりあそんだあとは、分解してなかのぜんまいや歯車や、弾み車のしくみをみるというのが、あそびでした。ぬいぐるみのクマの人形もおきにいりでした。あまりつれあそんだので、胴体のもみがらがおしりの縫い目がやぶけて、ぽろぽろとこぼれてでてきたときはびっくりしました、手をつっこんで、すっかりもみがらをかきだしていたら、偶然にゆびが手と頭にすっぽりとはまって、しんだとおもったクマがいきいきと動き出したのにはもう一度びっくりしました。人形劇との出会いでした。生と死と再生の神話のはじまりです。
Q 生の人形劇をみたことはありますか?
A なまの人形劇をみたことはありませんでした。山奥で娯楽がないので、社宅には、テレビは早くから導入されました。「テレビ天助」とか、「いまはむかし」とか「ちろりんむらとクルミの木」とかのテレビ人形劇をよくみて育ちました。孫悟空(糸操り)なんかも見ています。漫画(紙媒体)では、「鉄腕アトム」とか、「鉄人28号」なんかの世代です。東京に引っ越してきてからは貸本屋の漫画に夢中になりました。「忍者武芸帖」(白土三平)とか、の世代です。水木しげるさんの大フアンで、調布のご自宅まで手作りのねずみ男の人形をもって、たずねて行ったりした事もあります。
Q 将来のゆめは描いていましたか?
A 漠然と絵描きになりたいとおもっていましたが、高校一年のときに、すきだった美術の先生にあなたの絵はゆめがないと、言われて、絵描きは簡単に断念しました。理科系にすすんだのですが、図書館で本にであい、工芸のみちに目覚めて、美大受験の予備校だった阿佐ヶ谷美術学園の受験部、 夜間部にはいりました。そこで、人生のパートナーとなるゆきのと出会いました。ゆきのは女子美の油絵、わたしは 芸大の工芸科を受験して、現役で合格しました。
Q 大学ではどんな学生でしたか?
A 芸大にFOUFOUという人形劇サークルがあり、すっかりはまりました。他大の児分研などとはちがって、子ども向きじゃなく、じぶんたちの好き勝手にアバンギャルドな前衛劇に夢中になりました。寺山修司の天井桟敷とか、唐十郎の状況劇場とか、土方巽の暗黒舞踏とかがアングラとよばれた時期です。
Q FOUFOUではどんな人形をつくったのですか?
A けこみの後ろから使う棒使いの人形でした。かしらは張り子で作りました。わたしは人形のカタチよりも、からくりを作るのに夢中になりました。全員が美術家の劇団でしたので、いろんなおもしろいかたちの人形ができました。ただのはりこのかしらが、しかけをいれると、いのちを吹き込まれたようにいきいきしてくるのがおもしろかったのです。わたしはあまりカタチにはこだわりがなかったので、しかけの肥田クンとよばれていました。30体くらい仕掛けをつくりました。
Q ちょうど70年安保のころですね
芸大にも機動隊がはいりました。わたしはノンポリでした。芸術家は、作品で勝負するのが先だろうとおもっていました。授業はすっかりさぼって、部室に入り浸っていました。アルバイトで、テレビの子ども番組の美術をやりました。民放など、まだ白黒のところもありました。人形劇のセットを白と黒の絵の具だけで描いたりしました。友人のつてで、NHKの手伝いにはいりました。それが「できるかな」の立ち上げだったのです。4年生になって、FOUFOUの仲間で「朱雀人形座」という劇団をつくり立川の米軍ハウスに共同生活して、人形劇で革命を起こすんだとほんきで考えたりしました。そのころ日本では竹田人形座や結城座の和式の「糸操り」はありましたが、「マリオネット」は皆無でしたので、だれもやった事のないものをつくろうということで、金属のマリオネットやろうということではじめましたが、半年で空中分解しました。ちょうど連合赤軍のじきで、挫折を味わいました。卒業と同時に由美子と結婚しましたので、プラスチックの会社にデザイナーとして就職をしましたが、3日で辞めました。NHKの「できるかな」で枝常弘さんにであい、師事しました。
Q 芸大を卒業してから、本格的にテレビの幼児番組にかかわっていったのですね。
A ひょうたん島の脚本を書いていた山本護久さんが、仕事場エンタープライズという事務所をつくり、そこに、枝常弘師匠、加藤晃師匠そして私、脚本家の鈴木悦夫さん、マネージャーのマコちゃんという陣容で、レギュラーだけでも、 「ママとあそぼうピンポンパン」「おかあさんといっしょ」「できるかな」のアイデアと美術と台本を生産していました。わたしは、個人的に、「ひらけポンキッキ」やワンツージャンプもやっていました。自分が関わった番組を全部見ると一日に4時間半見なければなりません。そんなことは無理でしたから、ビデオもない頃でしたから、ただひたすらつくるばっかりの生活です。杉並の桃井4丁目に古い家を4軒かりて、芸大生のアルバイトをいっぱい雇って、作業場にしていました。
Q 具体的にはどんなものをつくっていましたか?
A ピンポンパンとお母さんと一緒では、曜日によって、工作、ゲーム、紙芝居、人形劇などの日替わりのコーナーのアイデアを考えました。なかでも、わたしの得意技はガラクタ人形劇とびっくりなぞなぞ、ガラクタ工作、のアイデア、連載のしかけつきの立体紙芝居「カバのこヒッポ」などでした。ポンキッキでは、因果関係マシーンというテーマで、いまのピタゴラスイッチでやっているピタゴラ装置のおおきなものをつくりました。本物のセメントブロックのドミノとか、脚立を組み合わせた滑り台とかを使った装置などです。ワンツージャンプでは、フリップの仕掛け付きのえを描きました。ギリギリのスケジュールだったので、一晩に10枚とかかきました。一枚一万円でしたので、いい稼ぎになりました。人形劇のセットを段ボール板で作りました。板をならべて、黒の絵の具でいっきに描いていきます。最低でも線画がかいてあればつかえます。あとは時間との戦いで、赤えのぐ、青絵の具、黄色と一色ごとに塗って行きます。そうすれば、あとはカッターナイフできりぬけば、OKもっていけます。知らないうちに眠ってしまって時間が来たら、タクシーでそのまま搬入しました。そして本番が終われば、食堂で、つぎの週のうちあわせ、そして明日の収録の為の買い出し、ハンズはまだなかったので、新宿のステーションビルに画材やと日用品雑貨を買います。9時閉店でしたので、たすかりました。
Q よくアイデアがつづきましたね。
A それが一番たいへんでした。アイデア会議のあった毎週水曜日の夜は、布団に入ってからしばらくは、やめようかとおもって、眠れませんでした・・・
最初の1年は全くアイデアが出ませんでした。はじめて一年目に大ヒットがでました。ピンポンパンの工作コーナーでつくったびっくりパクちゃんという仕掛け付きの紙人形で、放送後に問い合わせの電話が殺到しました。それから、コンスタントに出せるようになりました。・・・
アイデア出しは、一子相伝ようなところがあります。自分で考えたアイデアがよいものかどうなのかがわからないのです。しめきり目前まで考えに考え抜きす。・・・
枝常さんには、プロ根性、加藤晃さんには奇想天外のアイデア、山本護久さんにはお話のつくりかた、高見映さんにはモノを見せる順序のようなもの、を教えてもらいました。キツかったけれども・・・
Q できるかなは何年つづきましたか?
A 最初は2~3年かとおもっていましたが、20年もつづいた番組になりました。テレビの仕事がおわったら、マリオネットをやりたいと思っていましたが、今年で終わり、今年で終わりと言われ続けての20年でした。
7年目ぐらいに、自分の中で、大きな転機がおとずれました。平塚養護学校で鉄の人形の公演をしたのですが、そのとき・・・カタチじゃない、いのちなんだということを実感できました。 さらに、作ってあそぼで23年、合計43年もテレビに奉仕してきました。
Q 「できるかな」と「つくってあそぼ」では、どこがかわったのですか?
A 「できるかな」はアイデア担当が4人いましたから、個々の案が多少不出来でも、埋め合わせがききましたが、「つくって」は、年間企画から個々のアイデア、シノプシスまで私ひとりでやりましたから責任重大でした。アートディレクションに石崎友紀さんがついてくれて、造形メンバーにも恵まれました。・・・
「できるかな」15分通しで収録しましたが、「つくって」はとめとめでしたから、和気あいあいで収録できました。内容的には、・・・頭足人の発見による、コペルニクス的展開がありました・・・
テーマから基本、バリエーション、発展、飛躍、というシノプシスの発見がありました・・・ ブラックシアターでのアニミズム的展開も収穫でした。
Q マリオネットへの取り組みはどういう展開があったのでしょうか?
A 大学を卒業して、結婚して、テレビの仕事に就職?して一年目のころ、加藤晃さん、岡部久義さんとわたし、テレビをやっている美術家3人で、舞台をやりたいねという話がもちあがって、グループ展のように、豪華3本立てで、やってみようということで、私は紙人形でやってみようと、かみからくりかん人形工房というネーミングエントリーしていたのですが、ゆみこが懐妊しまして、急遽鉄の人形をやることになりました。朱雀人形座は解散しましたが、鉄の人形の図面だけは残っていたのです。 どうしても子どもが産まれる前に、鉄のマリオネットを作っておきたかったのです。
Q 「パラダイス」は何回やりましたか?
A 2年後76年麻布公会堂で「パラダイス2」その2年後78年に「パラダイス3」(プーク人形劇場)その4年後82年に宇野萬さんのステージで客演、おなじく82年、平塚養護学校、1992年「パラダイス3」(三鷹芸能劇場)、その10年後2002年にシアタートラムと、通算7回やりました。今日見ていただいたビデオは2002年一番新しい(といっても14年前)のものです。
Q 「動物図鑑」は?
A 1980年30歳の頃、マリオネットに関わるルーテインが欲しいと、毎週日曜日に三鷹のアパートで、マリオネット講座を開講しました。その時に、2~3年で次々と一気に作り上げた人形をつかって、こしらえたものが「動物ウゴクモノ図鑑」です。20年後にシアタートラムでパラダイスと共に、発表しました。
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以前アトリエでひとりふたりのひとをまねいて、ちいさな人形で電球一個の照明で積木やロープの人形をみせて楽しんでいた頃、ネットからはいってきた17さいくらいの女の子にみせていたときに、途中からずるずると鼻をすするおとがするのです。おわって、あかりをつけると、かおがくしゃくしゃで、めがまっか、どうしたの?花粉症?ときいたら、おおつぶのなみだをぽろぽろだして、「わたし生きている人形をみたのうまれてはじめて・・」感動でなにもことばがいえませんといってなくのです。その子のいった「生きているにんぎょう」という表現が、ぼくのかんがえているマリオネットにちかいかもしれません。操作者と人形が糸というたよりないものでしかつながっていないこと、いかにもおもいをこめて演技をするのではなく、(コントロール)たどたどしく動くこと、(アンコントロール)そのすきまのところにあやういモノとしての人形の「いのち」がたちのぼるんだとおもいます。そのばあい、人形はさいごまで、モノとしてみえることがとても重要なんだとおもいます。 二十代のころは「自立」がテーマでした。とにかくがむしゃらに働きました。テレビの仕事が殺人的にいそがしく、自分の作品(マリオネット)をつくるひまがなくてあせっておりました。マリオネットで食べていきたいとおもっていましたが、まわりはゆるしてくれませんでした。
テレビで稼いだお金をつぎこんで、ときどき思いつめたように、公演をしましたが、社会的には認められませんでした。
三十代になって、自立だけでは立ち行かなくなって、「共生」ということを学びました。共生だけでもだめ、自立に裏打ちされた共生、社会とのかかわりのなかでの自立、どちらがかけてもだめ、ということを学びました。それでも、テレビとマリオネットの二足のわらじで、ひとの二倍も三倍も働きましたが、なかなかおもったようには認められませんでした。
四十代になって、いきなり実家が火事になり、同時にはじまった父の闘病生活のサポート、そして死、兄の多重債務の整理、妹の突然死、続けて母の脳いっ血による介護と再発による死。人生の後半がこんなに大変だとはおもってもいませんでした。そんな苦しさをすくってくれたのは、妻の献身的な愛とこどもたちの純粋な存在でした。40代半ばをすぎたころから、それまで、するどく相反するものとおもっていたテレビの仕事とマリオネットの仕事が、じつは奥深いところでつながっていることを、感じはじめました。それにつれて、社会的にもすこしずつ、これがヒダオサムの仕事だと
いうことが認められるようになってきました。50代になって、これがわたしのテーマだとはっきり自覚できるようになりました。それは「愛」とそれに裏打ちされた「いのち」でした。「自立と共生」、「愛といのち」、30年かかりましたが、たどりついたものは、考えてみれば、もともと自分のなかにあったものでした。
52歳になって、それまでつくりためた人形の集大成として「動物図鑑」を発表しました。公演は大成功でした。順風満帆の船出でしたが、54歳で突然病魔におそわれました。(小腸出血) 3年半の闘病で学んだことは、「希望」と「忍耐」でした。希望は忍耐をたすけ、忍耐は希望をはぐくみます。
人生は、やまあり、谷有り。あれもあり、これもありだとおもいます。これしかないと思わないことが大切です。自分なりのテーマをもってやっていけば、いろんなことに意味をみいだすことは可能です。かならずチャンスがめぐってきます。
あせらずに、ゆっくりと、ひとつひとつ取り組んでいけばいいのだと思います。
造形とアニミズム
われわれ大人がふだん忘れてしまっている心のありかたの一つにアニミズムがあります。アニミズムとは、かんたんにいえば、生命のないものにも生命を感じる心のことです。 大昔の人が素朴に山や川や海をおそれたり慕ったりしたのは「原始アニミズム」、幼児が、石につまずいて、石も痛がっていると思ったり、寒い雪のふる日に木や花も寒がっていると感じたりするのを
「幼児アニミズム」といいます。こどもの造形を考えるとき、生命のないはずの紙切れや粘土のはしくれに、こどもたちは生命を感じているということを忘れてはなりません。 また、われわれ大人は、自分の心はいちばん中心のところにおいて、たいせつにまもっていますが、こどもの心はほとんどはだかのまま外界と接していることも忘れてはなりません。外界と接しているどころか、自由に出したり入れたり、分けたりできるのです。こどもがおもちゃのくるまやお人形であそんでいるとき、こどもの心の中心は、そのおもちゃのくるまやお人形のなかにあることすらあるのです。「つくってあそぼ」ではそのようなアニミズムを大切に、こどもの心に届く造形を展開していきたいと思っています。 天地創造~「いのち」をつくる
造形は「かたち」を造ると書きますが、「かたち」以前に、「いのち」を造るという段階があることをしってほしいと思います。こどもたちが、紙のうえにクレヨンや絵の具で描いているのは、かたちではなくて、「いのち」を描いているのだという認識が必要だと思います。「かたち」だけをみて、じょうずだとかへただとか判断したり、表現や伝達の手段としてのみ「造形」を考えると、「いのち」の創造というもっとも大事なこどもの心の発達を見のがすことになります。こどもたちは、紙や粘土やクレヨンの線や空き箱などに「いのち」を与え、天地創造をしているのだという認識が大事だと思います。こどもが、こども自身の世界を創造し、そこに「いのち」を創造して、父母や先生やともだちと共感できた喜びを感じ、自身の存在に喜びを感じられることは、それがつみかさねられたときに、やがてそのこどもがこの世界とつながりをもって、自信をもって自立して生きていくことを助けるでしょう。それが、人への思いやりや、いのちを慈しむ心、物を大切にする心、真の創造性をはぐくむのだと、私は思います。 「忍耐」と「希望」が育ちあうものづくり
ものをつくることには、たのしさばかりがあるわけではありません。実は、むしろ思いどおりにいかない時の忍耐や妥協が必要になることが多いのです。のりが乾くのを待つのも忍耐だし、イメージとちがったできあがりに折り合いをつけるのも忍耐です。それでもつくるのはその先に希望があるからです。希望は忍耐をそだてます。逆に、忍耐は希望をはぐくみます。うまくできない経験がつみかさなってこそ、うまくいったときのよろこびは大きいのです。 ワクワクさんはじつに簡単そうにつぎつぎと面白いものをつくっていきますが、実際つくってみるとむずかしいことが多いのも事実です。それでも、おもしろいアイデアに希望をみいだしてチャレンジするのだと思います。最初はテレビとおなじものをつくろうとはじめても、作っていく内につぎつぎとアイデアがうかんで、まったくちがったものになってもいいのです。むしろそんな造形活動をねらいとしています。 |
いのちをつたえる紙あそび
ヒダオサム(造形作家)
「いのち」と「かたち」
二つの言葉を結びつけて考えると、意味の深くなる言葉があります。
たとえば、「自立」と「共生」。ひとり立ちする事、共に生きる事、一見、相反する言葉のように感じられますが、ひとりひとりの自立なくして、共生はありえませんし、共生あっての自立こそが、真の自立と言えるでしょう。人間は、一人では生きられないのです。
造形に、この「自立」と「共生」をあてはめて考えると、「自立」とは、自分のイメージを創作(クリエイション)できる事であり、「共生」とは、イメージを友達や、先生と、共有したり、やりとりして、共につくったり、遊んだりする事だと思います。
同じような言葉に、「いのち」と「かたち」があります。「造形」という文字は、「かたち」を造ると書きますが、「かたち」を造る以前に、「いのち」を造る段階がある事を、知ってほしいと思います。
「いのち」と「かたち」は、にわとりと、たまごのように、どちらが先とは簡単にきめられない、一対の言葉なのです。「いのち」あってこその「かたち」だし、「かたち」なくしては「いのち」も考えにくいものなのです。
子ども達が、紙のうえに、クレヨンで描いているのは、「かたち」を通して、「いのち」を描いているのだという認識が、必要だと思います。
幼児の絵画の発達段階は、(A)なぐり描きの時期(B)閉じた丸を描けるようになって、何でも、この丸で表現しようとする時期(C)手足が、頭から直接出てくる、頭足人の時期(D)胴体を表現した、ひとがたが描ける時期、というように発達していきます。(C)を通らずに(D)になるという事はないと、いわれています。これは、子どもが視覚的な「人」の「かたち」を表現しているのではなく、人の存在、つまりは「いのち」を表現しているからだと考えても、よいのではないでしょうか。
単に視覚的な「かたち」にとらわれて、巧拙を判断したり、また共感する事を忘れて、造形を考えると、この「いのち」の創造という、もっともたいせつな、子どもの心の営みを、見逃すことになります。
「創造力」と「想像力」
「いのち」と「かたち」に呼応する言葉として、「創造」(クリエイション)と、「想像」(イマジネーション)という、二つの言葉があります。どちらも、幼児の造形において、大切な営みです。
子どもたちは、紙や、ねんどや、クレヨンの線や、空き箱などに、いのちを与え、遊びの中で、その子なりのかたちを生み出し、天地創造をしているのだ、という認識が大事だと思います。
子どもの創造の意欲をひきだす為には、先生も、創造の意欲をもつことが大事だと思います。子どもだけにやらせようとしても、うまくいきません。先生がいっしょになって「こんなものが生まれたよ。」「これは何のかたちかな?」「じゃあ、これ何に見える?」と次から次へと、「いのち」や、「かたち」を、生み出していくと、よいとおもいます。
わくわくさんや、のっぽさんが、見事につくっているのを見るのは、気持ちがいいものですね。先生も、同じだとおもいます。先生が、見事に作って見せると、「わあ、先生って、かっこいい!」「先生ってすごいんだな!」「先生みたいに、作れるようになりたい!」という意欲がわきます。それはとても強いものだとおもいます。目のまえで、たとえば、ただの紙切れがバナナになって、そのバナナが「いないいないばあ!」までしてみせたら、子ども達はきっと、目を輝かせて驚くことでしょう。
このような、「いのち」が生まれる場面を、たくさん見せてあげられたら 素敵だとおもいます。ちいさいころに、ものをつくるよろこび、うみだすよろこび、そして、つくったものであそぶ喜びを知る事が、大切だとおもいます。自分で、いろんなキャラクター(分身)をこしらえて、それに愛情を持って、そのいろんな役割を遊び込んでいく。そういう自在感を経験することが、自信につながるんですね。そして、その遊びを父母や、先生や、ともだちと共感できたよろこびが、やがて、その子がこの世界とつながりをもって、自立して生きていく助けになるでしょう。そして、人への思いやりをイメージできる「想像力」や、いのちを慈しむ心、ものを大切にする心である真の「創造力」を育むのだと、私は思います。
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ごあいさつ。2013年2月8日
23年造形アイデア、造形監修をつとめました「つくってあそぼ」「つくってワクワク」が3月末にて終了いたします。フアンの皆様、長い間、応援いただきまして、ありがとうございました。「できるかな」から通算しますと、1300本の造形番組に関わらせていただいた勘定になります。いろいろな仕事で出会うデザイナーや、イラストレーターなどのクリエイター、アーチストの方に「小さい頃この番組で造形がすきになり、この道にすすみました」という声もたくさん聞きました。少しは、日本のモノつくりに底辺のところで、貢献できたかなと、うれしくおもっています。これからも、まだまだやりのこしたことがいっぱいですので、童話をかいたり、絵本を作ったり指導書をかいたり、研修会や講演会、ワークショップなどで、造形の楽しさを発見して広げて行く仕事を続けて行くつもりです。みなさん応援してください。アイデアスタッフだった、はらこうへいさん、いしかわまりこさんが、バトンタッチして、後継番組「ノージーのひらめき工房」の造形監修を担って行きます。造形番組の灯は消えません。こちらも応援してください。
欧米にはなかった、ものつくり日本の造形エンターテイメント番組「なにしてあそぼう」「できるかな」「つくってあそぼ」のDNA
単なる手作りおもちゃ工作のアイデアやつくりかた紹介の番組であったなら、「できるかな」「つくってあそぼ」はこれほど視聴者のハートを掴まなかったにちがいない。単に作るだけでなく、 つくったものの世界であそぶエンターテイメント性を重視していたからこそ、こどもたちに受け入れられたと言って良いだろう。 もし「つくってあそぼ」を終了させるのであれば、この伝統を継承させる幼児造形の新番組が提案されなければならないだろう。そして、その新番組は、「できるかな」「つくってあそぼ」とどこを新しく変えなければならないのであろうか?テレビは時代と共に変わっていくものである。「つくってあそぼ」が21年目をむかえ、変革「チェンジ」が求められているのは事実である。では、どう変わればよいのか?が問われている。だが、ちょっとまて、変える事に気を取られて、変えてはいけない事をわすれてはいないだろうか?
「できるかな」「つくってあそぼ」と番組はかわっても、変わらなかったものは何だろうか?共通して流れてきた地下水はなかっただろうか?この2つの番組に共通していた事をあぶりだせば、それは、つぎの番組にも受け継がれるべき大切なエッセンスを示唆するものだろう。
結論からいえば、それは、「作ったものを大切に扱うこと」だと思う。
おとなからみれば紙くずのように見えるものでも、子どもにとっては、苦労して作った大切な、世界でたったひとつの宝物、作品である。作品に子どもが愛着をもち、大切に思う事は当然のことだろう。愛情をこめて、一生懸命つくり、いのちをふきこみ、世界を創造し、その中で、心ゆくまであそぶ、作品を大切におもい、愛をこめて扱われることは、極めて大切な事である。
作品は子どもの分身、子どもそのものといってもよい。その作品を生かし、その作品のイメージを認め、共有し、遊び込み、その作品をたいせつに扱う事は、こどもそのものを生かし、大切に扱う事と同義といってよいだろう。そのように、作品を大切にすることは、やがては、他者の存在をも認め、大切にする事にも繋がるだろう。また、いのちを慈しみ、モノを大切にすることへも繋がっていくだろう。番組のなかで、作られたもののファンタジー、物語りをたいせつに展開し、ごっこあそびやゲームあそびを通して、たいせつに展開し扱う事は、見ている子供たちには、おおきな安心と、いやしを与えてきたのに違いない。誰しも、あんな風に大切にされたい、誰しも、あんな風に遊んでみたいと、共感を得てきたに違いない。そのような、作品を通して、世界をたのしみ、「愛する」事が2つの番組に通底していた水脈とみてよいと思う。
実際に番組で作られたものは、もちろん、じっさいの子どもが作ったものではない、それは、美大で美術を学んだ作家が、高度な造形センスを駆使してはいるが、「子どもの気持ちになって」作ったものである。愛情をこめて、一生懸命つくり、いのちをふきこみ、世界を創造し、遊びゴコロをふくらませてきたものである。その作品に対する思いは、じっさいの子どもと変わる事はないと思う。そのココロは、人的結合による人と人の鎖で、造形チームに継承されてきた遊びココロであり、夢そのものだったのではないだろうか。この40年間、造形の中身をめぐる様々な試行錯誤が造形チームによってためされ、工夫と研鑽で、げんざいの造形のテイストが醸成されてきている。この歴史を抜きにして、このチームを排除して、新番組が成り立つと考えるのは難しいと思う。これらの造形番組が、幼年期の原体験として日本のモノツクリにあたえてきた影響の大きさは、計り知れないものがある。世界的にみても、こんにち、「作ったものを大切に扱う事」は日本のものつくり、日本が誇るべき文化の本質としてますます重要になってくるだろう。NHKには、このDNAを是非、まもって継承していってほしい。2010年6月15日
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