2019年12月24日火曜日

コントロールとアンコントロールのすき間

 
  以前アトリエでひとりふたりのひとをまねいて、ちいさな人形で電球一個の照明で積木やロープの人形をみせて楽しんでいた頃、ネットからはいってきた17さいくらいの女の子にみせていたときに、途中からずるずると鼻をすするおとがするのです。おわって、あかりをつけると、かおがくしゃくしゃで、めがまっか、どうしたの?花粉症?ときいたら、おおつぶのなみだをぽろぽろだして、「わたし生きている人形をみたのうまれてはじめて・・」感動でなにもことばがいえませんといってなくのです。その子のいった「生きているにんぎょう」という表現が、ぼくのかんがえているマリオネットにちかいかもしれません。操作者と人形が糸というたよりないものでしかつながっていないこと、いかにもおもいをこめて演技をするのではなく、(コントロール)たどたどしく動くこと、(アンコントロール)そのすきまのところにあやういモノとしての人形の「いのち」がたちのぼるんだとおもいます。そのばあい、人形はさいごまで、モノとしてみえることがとても重要なんだとおもいます。