10年前に病気で亡くなった親友、望月澄人さんの回顧展を見に札幌まで行ってきた。ポンキッキで一緒にやった望月さんのブログ「6月の柔らかな庭で」に掲載されている文章の一部を以下に転載します。
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1970~80年代は団塊世代の子供が育っていった時代にあたる。
TVを使った 幼児教育と産業が確立された時代でもあった。
■ヒダオサムさん
私を幼児教育番組「ひらけ!ポンキッキ」に引っ張りこんだのはヒダオサムさん。その仕事ぶりには圧倒された。
実は私は、彼の代わりに「おかあさんといっしょ」の人形劇を依頼されたことがある。しかし始めた途端、週に3種類もの人形劇を作っていたら他に何もできなくなってしまうと思い、1か月後に辞退させてもらった。
この仕事では、朝から1人でNHKのスタジオに入り、人形劇のセットを作り、午後、収録が終わると食堂で次の台本の打ち合わせに入る。それがすむとタクシーで渋谷東急ハンズや原宿に材料を買いに行き、次の日に制作。そしてまた翌日に収録というスケジュールをこなしていかざるを得なかったのだ。
しかし当時のヒダさんの仕事ぶりは、この比ではなかった。幼児教育番組だけでも「できるかな」や「おかあさんといっしょ」、「ピンポンパン」にかかわっていたが、さらに雑誌や単行本まで執筆していたのだ。
こうしてヒダさんは、「できるかな」終了後、幼児教育番組「つくってあそぼ」立ち上げの中心的存在になる。そして番組のキャラクターデザインと造形指導を担当することに。
ヒダさんには仕事だけでなく、いろんなところでお世話になった。ヒダさんの劇団「ヒダマリオネット」については別の機会に記述したい。
■幼児教育番組の裏方さんたち
工作番組というのはアイデア考案と工作制作からできている。「できるかな」では、ヒダさんの集めたは芸大の学生たちが工作制作をしていた。出崎さん、鈴木さん、竹内さん、朝山さんたちの強力なメンバーが結集していたあたりが黄金時代かも知れない。その後の世代が石崎さん、柳さん、今は2人とも大学教授。
(*このブログは、ノッポさんが自分で工作を考えている、と信じている人はいないと想定して書いています。ノッポさんは役者です。)
■おもしろ工房
「おもしろ工房」は、ノッポさんの書く台本用の美術工房としてスタートしたが、工作専門ではなかった。工作だけを担当したのはTBSの番組「ディズニークラブ」の半年間ぐらい。
米国には工作をTVエンターテイメントとして作る仕事はなく、「これは何という職業なのか」とプロデューサーが驚いていたが、答えようがなかった。こんな仕事をしていたのは日本に数人しかいないのだ。
久しぶりに「大駱駝鑑」麿赤児さんが公演のポスター依頼に来た時、私の仕事をみて「幼児教育界に咲いたあだ花だね」といったのが忘れられない。
工房の仕事の中心は工作からデザインにシフトしていたと思う。今から考えると、よくあんなにいろんな才能が出入りしていていたものだとも思う。彼らについては書く内容が多すぎて別のタイトルが必要だ。
当時、彼らはほとんど学生でだったが、今は立派になって活躍していている。だから口にするのはいいとしても、文章にして記述するのは気をつかう。中には漫画家として億万長者になった方もいる。もっともレアな話題のある時代なんだけど、いずれ。
札幌に来てから、自分の子供たちに「どうしておもしろ工房をやめたの?」とよく聞かれた。いろんな原因があるが「少子化による幼児教育産業の衰退」かなぁ~、と答えてきた。
今もう一つ答えられるとすれば、スタッフを、そして工房の制作力を維持していくのは簡単じゃないということ。仕事の中でデザインワークだけは自分にしかできないという自負があったが、仕事が多角化していくにしたがい、デザインワーク以外にも多くの時間をとられるようになっていた。さらに熱い依頼主も減ってしまった。仕事をコンパクトにしたかった。そしてMacに出会う。
■きっかけ
20代の半ば、杉並に住んでいた頃、毎週土曜の夜は近所の画家、村田夫妻のアパートで飲み会だった。メンバーは近くに越してきた芸大の1年先輩、ヒダさんと私。ヒダさんはNHKやフジTVの幼児教育版組で活躍していた。
そんなある夜、ヒダさんから、「朝までに段ボールの車を4つ作らなくてはならないけど、手伝ってもらえないか?」と頼まれたのが私のポンキッキの始まりだった。
午前1時に飲み会を終え、彼のアトリエにいって机ほどの大きさの一輪車、二輪車、三輪車、四輪車の4つの車を制作した。とはいっても私が作れたのは一輪車だけ(工事現場で使う手押車)。残りの3台はすべてヒダさんが作ってしまった。
この時受けたカルチャーショックは忘れられない。
段ボールとガムテープだけで、あっと言う間にそれぞれの特徴をもったデザインの車を作りあげてしまうヒダさん。それにくらべ常識的でリアルな車しか思いつかなかった私。眼から鱗が落ちる思いだった。
朝の5時、私はアパートに戻って寝たが、ヒダさんは別の仕事を始めていた。
■おもしろマシーン
当初、ポンキッキは、レギュラーではなかった。NHK「できるかな」の工作のお兄さん、ノッポさんこと高見映さんが、ポンキッキの台本を書いていたが、台本に出てくる仕掛け付きの美術が、フジテレビでは出来ないというので、これだけを制作していた。
しかし番組では、この装置がおもしろいというので、この装置だけのコーナーを作るなどし始めた。
こうして仕事が増えてきたので、ヒダさんと私は「おもしろ工房」を作り、アルバイトを雇って「おもしろマシーン」シリーズを制作していった。
「おもしろマシーン」にはいろいろなものがある。「ポンキッキ」のキャラクター”ガチャピン”、”ムック”や他の出演者が使う装置と、装置だけを見せるコーナーの2種類があったが、すべて言葉、数、色、形などを教育する機能を持っていた。
この装置は、後の時代にNHKに登場する「ピタゴラスイッチ」とも共通点はあるが、「おもしろマシーン」は、子供にも作れそうな工作であり、素材が幼児のまわりにある生活用品だけであること。ノッポさんがタップダンサー出身でエンタテインメント風の脚本に味付されているという点に違いがある。
最初はドミノ倒しのように全自動だったため、番組のきびしい条件内でマシンを制作するのは難しかったが、ネタがなくなって手動装置にしてからは、デザインに凝れるようになって、ちょっとしたマッド・サイエンティスト気分が味わえた。
■幼児教育番組
当時は、全テレビ局が幼児教育番組を持っていた。
ポンキッキには、、ピンポンパンというライバルがいたが、「およげ!たいやきくん」の大ヒットの後で自信を持っていた。とはいってもこれらの番組のブレーンはどこかでつながっていた。
私をこの世界に引き込んだヒダさんが所属していた”仕事場エンタープライズ”は、「できるかな」、「おかあさんといっしょ」、「ピンポンパン」と、有力番組の台本とアイデアを作っていた。
また幼児番組のスタッフは、過去の人形劇番組の関係者でもあった。
”仕事場エンタープライズ”代表は、劇作家の井上ひさしと一緒に「ひょっこりひょうたん島」の台本を書いていた山本護久さんだった。
ポンキッキをたちあげたメンバーで、石森章太郎の原画(私はそう聞いているが真実かどうかは不明)から、ガチャピンやムックのデザインをおこした光子館も、多数の番組の美術をしていた。
ポンキッキが独特だったのは、トッププロデューサーは、SF作家で、日本SF界の総帥といわれ、「スターウォーズ」を翻訳した野田昌弘だったこと。
番組は、野田さんがフジTVのディレクターだった頃、「泉ピン子さんをお姉さんにしたらどうだ。」などのとんでもないアイデアからスタートしたといわれている。
野田さんはいつも怒鳴り散らしている強者だった。しかしこんなにスタッフから厚い信望のあったリーダーにはお会いしたことがない。愛車フェアレディzで新宿駅まで送ってもらい、米国にブラッドベリを訪ねた時の話を聞かせてもらったこともある。
テレビを見ていると同じように見える番組も、私がかかわった18年の間に制作体制は随分変わった。お姉さんも6人代わり、ガチャピン・ムックの役者さんも代わった。
私は外部のデザイナーとして関わっていたが、この番組ではセットから小道具、人形劇、歌の映像など、何から何までやらせてもらった。やらなかったのは作曲・作詞ぐらい。番組は少子化にともなって縮小されていった。そしてやがて「ポンキッキーズ」に。
こちらにはほどんど関わっていない。
*札幌高専の学内ホームページに掲載した記事です。
ファイルの日付は1997年4月。時間が経っているので少し校正をしています。
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http://sumitto.blogspot.com/ 「六月の柔らかな庭で」 ご興味がありましたら閲覧してください 質の良いブログです。(ヒダオサム)
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